2月19日。
この日は調子がいい。
腹痛も軽減している。
真紀ちゃんの部屋に行くと、目を輝かして受験勉強中だ。
表情も明るく見える。
質問する。
「先生、受験場へは自宅から行くんでしょうか。」そうさせたいが、病院から出発の方が安心だな。
「ううん、大事をとって病院から受験場に行こうよ」そう答えると、真紀ちゃんは顔を曇らせたかと思うと、もう目には涙をためていた。
検査結果はおおむね改善傾向にあるが、黄疸が進行しつつあるのが気になった。
比較的調子のいい今、明日にでも受験させたい。
そう思った。
2月20日土曜日。
全身状態は良いのだが午後になって発熱が見られる。
黄疸は確実に進行している。
黄疸の原因は腹部出血後の溶血のためというよりも肝臓や膵臓に転移している腫瘍による胆道系の閉塞機転によるものが疑われる。
深刻な状態である。
受験場へ真紀ちゃんをどのような方法で運んで行けばいいのかを検討する。
消防署の救急車か、病院のドクターズカーあるいは他の方法をとるか迷った。
両親と話し合う。
結局、あまり大げさにしない方法がいいという所で話しがまとまった。
都合のいい方法が見つかった。
経済的には問題があるが、民間の寝台車にすることに決定した。
真紀ちゃんにそのことを話す。
そして受験場には私と看護婦のNさんが付き添うことも告げた。
私達が付き添うことについては、「本当は付き添う必要はないんだけど、この前みたいに急に痛くなると大事な受験を中断しなきゃけないことも考えられるから念のために付き添うことにしたよ。」と言う。
真紀ちゃんはすぐに問う。
「先生の火曜日の午後の外来はどうするんですか。」私も即座に答えた。
「今度の外来は調べてみると患者さんが少ないようだし、電話して他の日に来てもらうから心配しなくていいよ。」と。
さらに真紀ちゃんは「Nさんも、せっかくの休みなのに…。」とつぶやく。
「その日はデートもないし、真紀ちゃんのために喜んで行きたいって言ってたよ。」と私は答えた。
真紀ちゃんは白い歯を見せてわずかに笑った。
可愛い。
付き添う二人の都合を心配するところは真紀ちゃんらしい。
2月21日日曜日。
38度の微熱あり。
機嫌は良さそうだ。
新鮮凍結血漿を輸血してから真紀ちゃんの嫌いな点滴を抜く。
点滴を抜くなり受験勉強の開始だ。
それまで点滴内に投与していた痛み止めの麻薬の代わりに、カクテルの痛み止めを内服することにした。
説明したつもりではあったが、「さっきの薬は何ですか。」と質問。
しかも、「お薬飲んでからお腹が痛くなってきたみたい。」と。
真紀ちゃんには、この薬はお腹の動きを良くして、お腹の張りをとるためのものと説明する。
カクテルの薬を飲んで痛くなったのは、飲んだからではなくて、点滴内に入れていた麻薬の効力が切れてきたためであろう。
確かに下腹部を痛がる。
この部分はCTでは腫瘍は存在しなかったので、私はさほど心配はしていなかった。
上腹部に痛みが出現するようなことがあれば要注意だ。
その上腹部、正確に言えば心窩部を押さえるとわずかに痛がる。
この部分が圧迫されないようにしなければなるまい。
あの出血が怖い。
眼球の黄染は昨日よりもいくらか進行しているような気がした。
今日は日曜日なので検査はせず。
今すぐにでも受験させたい。
明日は分からないのだから…。
2月22日。
入学試験をいよいよ明日に控えて、昨日よりは状態は確実に悪化している。
黄疸も進行し、検査上も血清ビリルビン値がさらに上昇している。
熱も39度近くまで上がる。
そして最も恐れていた上腹部に痛みが出現した。
診察すると、右の肋骨の下に小指大から親指大の腫瘤を触れる。
きのうはこんなには触れなかったのに。
腫瘍の増大速度の速さに驚き、この無慈悲な腫瘍が憎い。
真紀ちゃん自身も元気がなく、不安そうだ。
「真紀ちゃん、明日の試験、ファイトある?」と問うと、黙って頷く。
受験勉強にも今一つ力が入らないという感じである。
突然顔を私に向けて「先生、さっき私のお腹を触ってみたんだけど、何か固いしこりがあるんです。これはウンチではないと思うんです。これって何ですか」と心配そうに質問する。
質問は突然であったけれども、その答えは準備していた。
「それはね、ついこの前にお腹にちょっと出血したよね。それが固まりになっているだけで、しかも治る過程でだんだん固くなってきてしこりとして触れるんだよ。そういうのを血腫と言うんだよ。」ときわどく答えた。
真紀ちゃんはそれ以上は質問せず受験勉強に向かった。
夜になっても腹痛は持続し、しかも嘔気が出現した。
真紀ちゃんは痛みの和らぐような姿勢をとるために、上を向いたり、右や左に体位を変えた。
辛そうである。
午後9時半過ぎに付き添っていた母親をナースステーションに呼んで話しをする。
「急変することがあるとしたらお腹の出血ですが、その他に膵臓の頭部に転移した腫瘍が増大していて、そのための腹痛と黄疸の進行が現在の問題点です。こういう状態で明日の入学試験があるわけですが、真紀ちゃんの具合によっては、受験できなかったり、途中で中止せざるを得ない場合もあり得ると考えています。でも僕が受験を中止させたくても、あの気丈な真紀ちゃんが拒否したらどうしましょうか。」と母親に説明する。
「ここまであの子は頑張ったのですから、あの子の気のすむようにさせて下さい。お願いします。」
母親はハンカチを目に当てながら静かに答えた。
すでに準備してある明日必要な物品の確認をする。
座椅子、輸血製剤から痛み止めの注射薬、酸素ボンベにマスク、点滴セットそして蘇生道具と薬品。
こういう物品を使いたくないな。
でも使う羽目になるかもしれない。
緊張してくる。
病院で受験できないことを残念に思う。
少なくともあの高校で命を落とすことがないようにしよう。
その範囲内で真紀ちゃんの好きなようにさせてあげよう。
彼女の意識がある限り。
今夜は眠れそうもないな。
そんな気がした。