1.最後の入院

真紀ちゃん、ここではそう呼ぼう。

2年5カ月の間、そう呼んだのだから。

1月27日に退院したばかりで、高校入試を間近に控えた中学3年生である。

2月1日、真紀ちゃんは母親に付き添われ、午後に受診した。

前回の退院の後、2日して鼻出血を見るようになり、また発熱も出現した。

母親が食欲も全くないと言う。その日になって下肢が浮腫っぽくなった。

真紀ちゃんは下を向いたままで、私の問いに対してただ頷くか、首を横に振るだけである。

涙が真紀ちゃんの膝に落ちる。

予定では火曜日である明日の午後の私の血液腫瘍外来に受診する筈であった。

もともと我慢強い真紀ちゃんが明日を待ちきれずに受診したことから、よっぽど苦痛であるに違いない。

真紀ちゃんは入院するように告げられるのを覚悟していたのだろうか。

しかし、「真紀ちゃん、入試も近いし、状態をよくしてから元気に受験できるように、今日これから入院しよう。」と私が言うと、堰を切ったように診察室の外の廊下にも響き渡るほどの声を上げて泣き出した。

真紀ちゃんの座っている車椅子も小刻みに揺れる。

車椅子の後方に立っている母親も目をわずかに充血させ、ハンカチを取り出した。

そのうちに真紀ちゃんはすすり泣くような嗚咽に変わる。

涙で濡らした顔を私に向け、ようやく口を開いた。

「先生、本当に良くなるんですか。高校入試は受験できるんですか。足の痛みやお腹の痛みは絶対よくなるんですか。」涙を貯えた彼女の目が私に鋭く迫った。

『先生、入院すれば私の病気は絶対に良くなりますと断言して下さい』と言わんばかりに。

私はその問いに対して自信は無かったが、小さく首を縦に動かした。

「真紀ちゃん、良くなると思うよ。受験も大丈夫だよ。」

「絶対ですね。」と念を押す。

私の目をしっかり見据えて。

入院することを了承した真紀ちゃんの車椅子を小児科の病棟である5階東病棟まで、押して行く。

エレベータの中でも下を向いたまま、膝に涙を落としている。

大部屋の503号室に入るや、外来で泣いたのと同程度に声をあげて泣いた。

私も係りのナースも真紀ちゃんの激しい泣き声に圧倒された。

これまでの、どの入院の時でさえ、これほどまでに泣きじゃくったことはなかったのに…………。

そして、真紀ちゃんは車椅子からベッドになかなか移ろうとはしなかった。

2.それまでの経過

真紀ちゃんは今から2年半前の8月頃から腹痛を訴えるようになった。

鎮痛剤を内服するなどして痛みを凌いでいたが、しだいにそれだけでは痛みが軽減しなくなってきた。

さらに発熱もみるようになった。

近くの病院を受診して、腹部の超音波検査で卵巣腫瘍が疑われ、10月2日に当大学病院の産婦人科で腫瘍摘出術が施行された。

摘出標本の病理検査から悪性リンパ腫と診断され、化学療法の目的で小児科に転科することになった。

当時、私は横須賀の病院の小児科に出張していたこともあって、火曜日の午後の血液腫瘍外来の時は勿論のこと、新しい小児血液腫瘍の患者が入院した時や入院患者にトラブルが発生した時、小児腫瘍患者の受け持ち医が治療上のことで相談を受けた時、そして自分自身が患者のことで気がかりな時に夜な夜な5階東病棟に出没していた。

真紀ちゃんと初めて会った時、色は浅黒く(中学校の部活はソフトボール部で、確か一塁を守っていると話していたような記憶があるが、とにかく練習熱心であったようで)、優しい目をした端正な可愛らしい顔の女の子で、人なつっこく、しかも聡明な印象を与えた。

両親の強い希望で彼女には病名を告知しなかった。

それだけに自分の病状や治療内容に疑問を持ったら、私に対して的を得た質問を浴びせ、私も返答に苦慮することがあった。

逆に彼女にとっては時には私の返答は深刻に響く内容もあった。

質問をする時の真紀ちゃんは、私の目や唇に鋭い視線を向けた。

治療のない日は、病室の彼女よりも小さい患者達の面倒もよく見てくれた。

そして、何と言っても兄さん思いであった。

特に自分が入院することでただ一人の兄弟である兄さんに心配かけちゃいけないとか、母親が真紀ちゃんの見舞いのために兄さんをあまり構わなくなると可愛そうだとか、申し訳なさそうな顔をして話してくれた。

治療経過中に予後不良の兆候も認められたが、完全寛解を達成し、正月開けの一月中旬にはめでたく退院できた。

入院した時に浅黒かった肌もすっかり白くなっていた。

その後は約4週間隔で入院し、再発防止のための約一週間の強化療法が施行された。

真紀ちゃんは、入院することで勉強が遅れることや、部活の同僚達に迷惑をかけることなどを理由に、強化療法で入院することを嫌がったが、決して涙をみせることはなかった。

治療で入院する時以外はほとんど登校し、そしてソフトボールの練習に励み、再び小麦色の肌に戻った。

それはあたかも病気が治ったかのような印象さえ与えた。

しかし、次の正月前から右足の痺れや痛みが出現した。

日光旅行から帰って跛行がみられ、腫瘍の転移あるいは浸潤の疑いにて入院することになった。

右臀部に腫瘍が認められ、化学療法、放射線療法などの治療が施され、腫瘍は消失し痛みは軽減したものの足の痺れは残った。

その後の経過中にCT検査で左の腎臓にも腫瘤が発見された時には私も頭を打ち割られんばかりの衝撃を受けた。

その後の治療も以前にも増して強力な治療が施されることになる。

以前の時点でもそうであったが、骨髄移植を両親に提案したが、いくつかの理由で拒否された。

この年に私は横須賀の病院から大学に復帰した。

真紀ちゃんは足を引きずりながらも登校したが、ボールを追ってグランドを走り回ることはしなくなった。

病魔は痛みをこらえて登校しようとしている彼女を嘲笑するかのように、身体を蝕んでいった。

もう一つの腎臓も、肝臓、そして他の臓器をも.......。

頻回の化学療法を以ってしても悪性細胞の勢いに対しては防戦一方の一年が経過した。

この年の大晦日に真紀ちゃんは持続する発熱と食欲低下のために入院した。

正月を病院で過ごすことになった。

予定では、母親の実家がある日光の近くで楽しむ筈の正月であったのだが。

入院後、腹部の腫瘍部分からの出血によると考えられる症状が出現した。

一時的にショック状態に陥ったのだが、輸血などの処置で急場を凌いだ。

腹部も手で触診すれば容易に分かるほどに腫瘤は増大していた。

しかし、病状はいくらか改善したかのように見え、点滴療法も真紀ちゃんにしてみれば不要に思える程度に和らぐ。

高校入試を約1ヶ月後に控え、真紀ちゃんも受験勉強に焦りを感じ、退院を希望した。

誰にもそうなのだが病気と必死に闘っている真紀ちゃんにとっても高校入試は大問題であり、高校入試なしには彼女の将来は語れないように私には思えた。

そして、化学療法を行った後の1月27日に退院することに決めた。

せめて入試までは、入院するほどのトラブルが起きないように祈った。

だが.....。

3.病魔との闘い

入院した時の真紀ちゃんの状態は思った以上に不良であった。

栄養不良も加わった低蛋白血症や循環不全による浮腫、白血球減少による感染症の発熱、血小板減少による点状出血斑などの出血傾向、主に貧血によると考えられる顔色不良と全身倦怠が認められた。

そして、真紀ちゃんの病状悪化による精神的な落ち込みが私達に暗くのしかかってくる。

何とかしてもう一度退院させたい、少なくとも彼女の将来への希望の架け橋である高校受験をかなえさせてあげたい、いや、それだけは何としてでも実現せねばと思った。

入院するなり、真紀ちゃんの最も嫌いなものの一つである点滴を開始する。

濃厚赤血球や血小板の輸血も施行する。

点滴する時に真紀ちゃんは質問する。

「先生、なぜ、点滴するのですか?」「真紀ちゃんが食欲がなく、元気がないからだよ。食べる元気が出ればすぐに点滴をやめようね。」と私は答えた。

「じゃあ、食べるようになれば点滴は抜くんですね。先生。」彼女はそう確認した。

「そうだよ、真紀ちゃん。ちゃんと食べるようになればね。真紀ちゃん、今、頑張りどころだからね。ファイト、ファイト。」

今にも泣き出しそうな顔をして彼女は小さく頷く。

「そうだ、明日から個室に移ろうか。お母さんに付き添ってもらえばどう?」と私は提案した。

今回の入院時の真紀ちゃんのあの泣きじゃくり方からして、その方が彼女は安心すると思った。

いつもの真紀ちゃんならば、お兄さんのことを心配してきっと首を横に振ったに違いなかった。

しかし、今度はそうではなかった。

「そうして下さい。」と下を向いて答えた。

翌日、個室の508号室に転室する。

輸血の効果もあってか、全身の浮腫は昨日よりも軽減する。

朝から、食事も彼女なりにがんばって摂取しようと努力している。

「栄養状態が悪いのは食事が偏っているせいだと先生に言われたから、頑張って少しでも食べないと。」と看護婦に話したそうだ。

しかし、口腔粘膜に口内炎もあり、食は今一つ進まない。

この日から母親の付き添いが始まる。

真紀ちゃんの母親は、物静かで落ち着いた印象を私達に与え、中学3年生の真紀ちゃんに一人の自立した人間として対応するが、一方では私が真紀ちゃんの病状を説明した後、涙で濡れた顔をハンカチで拭った後に充血した目を隠そうともせず、そのまま真紀ちゃんにさらけ出し、時には真紀ちゃんの前でハンカチを取り出すことさえあった。

また、限りある命の真紀ちゃんの為に、母としてどうしてあげるべきかを絶えず考えていると言っていた。

場合によっては、私のある治療の提案を拒否することもあった。

「その治療は真紀を納得させることはできません。」とか、「その治療はここまで来てしまった真紀の命を幾日かは生き長らえることはできるかもしれませんが、それが真紀にとって一体どういう意味があるんでしょうか。」というように新たな治療方法に率直に疑問を投げ掛けることもあった。

母親の付き添い第一日目は、夜に比較的止血の悪い鼻出血が認められたが、その他には大きなトラブルはなかった。

その後の真紀ちゃんは熱は微熱程度で、全身状態はやや改善してくる。

ただ、口内炎で相変わらず苦しめられた。

彼女なりに懸命に食べようとするが、口内炎の部分に歯が当たり、痛くてなかなか思うようには食べられない。

濃厚赤血球や血小板の輸血も依然として継続せざるを得なかったが、次第に回数が少なくなった。

入院して一週間目からはほとんど発熱も見られず、しばしば可愛らしい笑顔を見せるようになった。

この頃から一週間は最も状態は安定していた。

点滴こそ繋がれていたが、私達と雑談をした後は受験勉強に励む姿が夜遅くまで見られた。

その時の真紀ちゃんは目が輝いていた。

このままの状態ならば受験可能に見えた。

真紀ちゃんに点滴の抜去が間近いことを告げると、歯並びのいい白い歯を見せて微笑み返してくれた。

しかし、その翌日の2月13日の朝から激しい胸痛を訴えた。

さらに発熱した。

再び腫瘍細胞が頭をもたげてきたのである。

血液検査所見からもそれが裏付けられる。

私立高校の入試を5日後に控えて、真紀ちゃんの顔が暗くなった。

部屋を訪れるたびに、涙を流す。

「入試までには胸の痛みはきっと無くなってるよ。」と励ますも、笑顔は見せてくれなかった。

その晩、父親に真紀ちゃんの今の状態を説明する。

父親は髪には白いものが目立ち、顔の頬や額にわずかな皺が刻まれようとしていた。

話し方は丁寧な口調で、勤勉で人の良さそうな印象を与えた。

悪性の細胞が真紀ちゃんの身体を更に巣食ってきたことをCTなどの画像写真と血液検査結果を見せながら説明した。

それだけに2月18日の私立高校と本命の2月23日の公立高校の受験はいずれも困難になってきたことを告げた。

父親は眼鏡の奥の優しい目に涙を貯え、両手に握りこぶしを作って、それに力を入れ込む。

腕が小刻みに揺れるのが伝わってくる。

唇も震える。

なんとか受験できる手立ては無いのかと訴えているように。

悪性細胞が憎い。

2月14日昨日の鎖骨下の前胸部の痛みは消失した。

一日遅れだったが点滴を抜く。

とたんに真紀ちゃんは明るくなり再びあの微笑みを見せてくれる。

可愛いい。

2月15日 微熱こそあるが、全身状態は一見改善したように見える。

真紀ちゃんの表情がさらに明るくなる。

相変わらず、受験勉強に励んでいる。

真紀ちゃんは髪を洗って欲しいと言ったが、38度近くの熱があるとの理由で大事をとって許可しなかった。

私も入試に対して敏感になり過ぎたのかもしれなかった。

「2月18日が私立高校の入試だから、2月17日には家に帰りたい。」と看護婦に言ったそうである。

昨日と今日の症状は落ち着いてはいるものの、今日の検査所見から、今後の病状の悪化が予想される。

心配だ。

2月16日 皮肉にもその心配が当たった。

早過ぎる。

早朝から激しく腹痛を訴える。

しかも顔色が蒼白だ。

血圧が70まで下がり、脈拍も速い。

出血性ショックだ。

真紀ちゃんは腹部を押さえうずくまる。

前回のCT所見から膵臓を含めた腹部への転移部位から腹腔内への出血が最も疑わしい。

直ちに点滴を再開し、輸血を開始。

痛み止めも使う。

蒼白な唇が少しばかり色付いた時に、真紀ちゃんは質問した。

「先生、18日の試験は受けられますか。」と。

「うん。」と頷く。

それも力なく。

「先生、熱も出てくるような気がする。」真紀ちゃんは不安そう。

症状は一旦は落ち着いたものの、夕方になって再び腹痛と嘔吐、さらに呼吸苦を訴える。

鎮痛剤と輸血は続行する。

急変しそうな状態である。

今日は病院に泊まろう。

かなり出血したらしく、腹部が張り出してくる。

痛みが落ち着いた真紀ちゃんが質問する。

「輸血するとお腹がパンパンになっているのはとれるんですか。」と。

「輸血するととれるわけじゃないけど、その膨れているお腹のいくらかはウンチのせいだから、そのうちに前みたいに戻るよ。」と返答する。

事態は深刻だ。

深夜近くに父親と話しをする。

腹部の転移部位から大量に出血しているのは間違いないことと、2日後の私立高校の入試は無理でしょうと。

父親はそれでも受験させたいらしく、結局受験については、明日の状態を見てからと真紀ちゃんの希望を聞いた上で決定することにする。

2月17日0時30分に点滴の刺し替え。

針刺しをするのに適当な血管が残り少ない。

細い血管や曲がりくねった血管ばかりだ。

どの血管にしようか迷っていると、真紀ちゃんは「看護婦さんを呼びましょうか。」とナースコールのボタンを押そうとする。

目が優しい。

「呼ばなくてもいいよ。」と返事。

まもなく刺し替え成功。

輸血を続行する。

血圧も正常近くに上昇してきた。

排尿も十分だ。

やや頻脈気味だが、症状は落ち着いてきそうな感じ。

腹部はいかに出血が多かったかを物語っているかのようで、光沢を帯びるほどに膨満している。

真紀ちゃんがパジャマの上からお腹をさすりながら問う。

「ウンチが出れば、お腹の張りはなおりますか。これはみんなウンチなんですか。」と。

「全部がウンチっていうわけじゃなくて、そうだな-、半分くらいはウンチだよ。だからウンチが出れば半分くらいはへっこんで、もとどおり近くになる筈だよ。」と返事す。

この日は2回痛み止めの注射をする。

両親との話し合いで明日の私立高校の入試は受験させないことになった。

真紀ちゃんにとっては、すべり止め用の高校であったらしく、彼女は意外にさばさばしていたが、その分だけ2月23日の公立高校への入学受験が、私には重くのしかかってきた。

真紀ちゃんは「2月23日が受験だから、2月20日には自宅に帰れますか。」と問う。

「うーん、2月20日は帰れないかもしれないよ。」私ははっきりと言うと、涙を流し始めた。

「このお腹の半分がウンチなんだったら、どうして浣腸してくれないのですか。」と責めるような口調で問う。

浣腸すれば再び腹腔内や腸管への出血が心配だからとは正直には言えないことがもどかしく、それだけに説得力のある説明ができなかった。

「浣腸しなくても、そのうちにウンチが出るから、真紀ちゃんは心配しなくてもいいよ。」と答えた。

2月18日。

本来ならば真紀ちゃんは私立高校の受験場にいる筈なのだが、小児科病棟のベッドに横たわっている。

2月23日は真紀ちゃんは果たして受験できるだろうかと不安になった。

小児外科のN先生たちと話し合う。

なんとか病院のベッドで受験できないかを実現させようということになった。

そんなことが可能だろうか。

でもやってみよう。

受験に燃えている真紀ちゃんは動くとお腹に出血する恐れがあるのだから、この状態を訴えれば何とかなるかもしれない。

真紀ちゃんもそして、みんなが安心して真紀ちゃんを受験させるには病院受験しかない。

やってみよう。

ファイトがわいてきた。

病院の医療相談室のF先生に事情を話す。

病院受験ができるように快く協力を受けてもらう。

F先生は早速、私の前で市の教育委員会や受験するA高校の校長先生に精力的に電話をする。

胸がジーンとしてくる。

F先生の協力が嬉しかった。

しかし、電話では話しは進展しないらしく、結局高校の校長に私との面談を申し入れ、その日のうちに、私と父親がA高校に行くことになった。

4.校長との交渉

F先生と校長との話しで結局、これから私と校長との面談をすることになったと真紀ちゃんの面会に来ていた父親に話す。

父親は、目を潤ませていた。

「先生、病院での受験ができるといいですね。私どもも安心できます。真紀も喜ぶでしょう。先生、私も行きましょうか。私も校長先生に一生懸命にお願いしてみます。行きましょう。」と頭を下げる。

お願いというよりも私は交渉に行くんだと思っていた。

私の車で行く。

父親は助手席だ。

A高校までの道案内は父親にお願いする。

病院からA高校までの道のりで曲がりくねった登り坂の道の頂点のT字路の前を左に折れると真紀ちゃんの家があると父親が教えてくれる。

父親やその高校までの道には結構詳しいらしく、突然、細い路地に入るように丁寧に指示する。

再び私の見慣れた景色にも出会う。

その道すがら、父親は独り言のように口を開く。

「なんとかして、病院で受験できるといいですね。」同感である。

真紀ちゃんのために一歩も引き下がらないつもりで、校長と交渉しなくてはと決意が固くなってくる。

世田谷通りを横切ってしばらく走ると、「あれです。」と父親が指差した。

一戸建て用の土地の中にぽつんぽつんと新築の建て売り住宅が数個見え、その後方にいかにも新しい高校らしい白い大きな建物が目に入った。

「先生、行き過ぎです。ちょっと前を右折するんでした。」と父親が言う。

父親も緊張しているらしかった。

A高校の駐車場に着く。

すでに5時近い時間で構内も静かで、時折り笑い声や友を呼ぶ声が聞こえてくる。

白い大きな建物の方に行くと、クラブ活動の運動着姿の生徒達がいる。

校長室の場所を尋ねた。

父親の顔がこわばっているように見えた。

校長室に案内されてソファで数分待たされた。

「お父さん、病院で受験できるように頑張りましょうね。これだけは譲れないことですから。真紀ちゃんのために。」と言うと、「はあ、お願いします。」と父親は頭を下げて、申し訳なさそうに答える。

二人の男女が入って来る。

まず、若い女性の方に目が行く。

保健のS先生と紹介された。

優しそうな感じできれいな先生だ。

心配そうな顔をして私達を見つめ頭を下げた。

もう一人は校長先生で、当然のことながらかなりの年配で、座り慣れているソファにゆったりとと腰を下ろした。

さっそく、気合の入ってる私から話しを切り出した。

真紀ちゃんにとってこの高校受験の意義と身体を動かすと出血によって命を落とす危険性があることを説明した後に、その問題の解決は病院での受験しかないことを何度か強調する。

その度に人のいい父親は深々と頭を下げる。

しかし、校長は頭を縦には振らなかった。

その理由として、自分の高校以外の場所で受験することの決定権は校長にはないことと、市の教育委員会に電話したところ、前例がないことを上げた。

すかさず、私は「前例がないんだったら、前例を作ってみてはどうでしょうか。病気で苦しむ子の助けになるんですから、拍手喝采されても非難は受けない筈です。それに真紀ちゃんと同じような状態の子供達の励みにもなる筈です。」と食い下がった。

父親はまた頭を下げる。

しかし校長は今度は、自分には受験場を病院にするかどうかの決定権はないことを盾にして首を横に振り続けた。

私達の要望を受け付けてくれなかった。

父親もS先生も沈黙している。

私は今しかチャンスはないと思った。

「先生は常日頃生徒達に障害のある人や弱い人に優しさ施すようにを説いていらっしゃる筈です。校長先生自身が今こそそれを実践すべき時だと思います。それは素晴らしい決断だとみんなが思う筈です。」と、言ってしまう。

私は校長先生を見つめながら『さあ、校長先生、飛んで、今こそ、さあ。』と願った。

校長は口を開こうとしない。

「この高校で他の生徒達と一緒に受験させると、彼女は本当にこの高校で命を落とすかもしれませんよ。」と私は語気を強めた。

校長も眉間に皺を寄せ、困りきった顔をする。

保健のS先生が「そんなに病状はよくないんですか」と心配そうに問う。

「だからこういうお願いをしてるんです」と答えた。

しばらく沈黙の時間があった。

校長も席を立った。

教育委員会に電話するのだろうか。

もう言うだけのことは言ったような気がする。

向こうの出方を待とう。

こちらから話しを再び切り出すこともあるまい。

相手が折れることを祈った。

父親は出されたお茶をすする。

校長が戻ってくる。

ソファに座るなり校長はさっそく口を開く。

「私達も協力しますから、ここの保健室で受験してもらう訳にはいかないでしょうか。私どもも全面的に協力しますから…。必要なものがあったら準備しますから…。それからドクターには来ていただきたいのですが…。もちろん医療器具を持ち込んで下さっても結構です。いえ、そうして下さい。我々も全面的にご協力させていただくということで了解していただけないものでしょうか。」予想していなかった訳でもないが、その案に即座に答えられなかった。

私の横に座っていた父親が私の方を向いた。

「先生にはご迷惑をおかけしますが、先生、今の校長先生のおっしゃることはどうなんでしょうかねえ。」と校長の提案を受けるように催促しているように私には聞こえた。

お父さん、何を言ってるんですか。

何を遠慮されてるんですか。

あなたの娘さんの命がかかってるんですよ、と言いたかったがもう少しやわらかく諭した。

「お父さん、保健室とは言え、受験場で急変する恐れがあるんですよ。危険です。ダメです。真紀ちゃんの命を守りましょう。」と私は父親にささやくように話した。

父親は小声で私に答えた。

「この高校で命を落とすことになっても仕方ありません。これも真紀の運命です。」不意を討たれた気がした。

父親は病院での受験を断念している。

どうする。

どうしたらいいんだ…。

後は私の返事待ちだ。

再び沈黙の時間が流れた。

真紀ちゃんには申し訳ないと思った。

私は校長に視線を向けた。

「じゃあ、お父さんがそうおっしゃるのなら、そうするしかないでしょうから。そうしていただけますか。」するとS先生が間髪を入れずに「真紀ちゃんの受験場所の保健室を案内します。」と言って立ち上がった。

私達は校長と彼女の後をついて行く。

私達が来る前から彼らは保健室での受験を決めていたのだろうか。

そう思えるほどに二人は予定されている行動かのように、真紀ちゃんのベッドは3つベッドのうちの真ん中とか、付き添いの医者はどの場所にいたらいいとか、すべて手際良く私達に説明し、また、他の教室よりもこの保健室は暖房がよくきくなどの快適さを強調する。

私達の希望はかなえられなかったけれども、彼らの好意は一応評価した。

しかし、この保健室で真紀ちゃんが受験しているところを想像すると、恐ろしくもなり、緊張してくる。

病院に帰ると、さっそく真紀ちゃんに、医師が付き添いで保健室で受験することを告げた。

真紀ちゃんは、話しの途中で涙ぐんだ。

「どうもありがとうございました。」と言って頭を下げる。

今の私にはこれぐらいのことしかできないんだと思うと、もうそこには居たたまれなくなった。

その部屋から出る・看護婦たちに今日の校長先生との交渉のことを話すと、真紀ちゃんが受験できるような準備体制を調整することになり、さっそく真紀ちゃんの受験に付き添う看護婦の人選が始まった。

医者は私が行く。

試験当日が血液腫瘍外来だから、予約の患者の振り分けをしなくてはならない。

今から予約の患者を調べて電話しよう。

そして、試験当日に必要な物品選びも開始した。

5.受験前

2月19日。

この日は調子がいい。

腹痛も軽減している。

真紀ちゃんの部屋に行くと、目を輝かして受験勉強中だ。

表情も明るく見える。

質問する。

「先生、受験場へは自宅から行くんでしょうか。」そうさせたいが、病院から出発の方が安心だな。

「ううん、大事をとって病院から受験場に行こうよ」そう答えると、真紀ちゃんは顔を曇らせたかと思うと、もう目には涙をためていた。

検査結果はおおむね改善傾向にあるが、黄疸が進行しつつあるのが気になった。

比較的調子のいい今、明日にでも受験させたい。

そう思った。

2月20日土曜日。

全身状態は良いのだが午後になって発熱が見られる。

黄疸は確実に進行している。

黄疸の原因は腹部出血後の溶血のためというよりも肝臓や膵臓に転移している腫瘍による胆道系の閉塞機転によるものが疑われる。

深刻な状態である。

受験場へ真紀ちゃんをどのような方法で運んで行けばいいのかを検討する。

消防署の救急車か、病院のドクターズカーあるいは他の方法をとるか迷った。

両親と話し合う。

結局、あまり大げさにしない方法がいいという所で話しがまとまった。

都合のいい方法が見つかった。

経済的には問題があるが、民間の寝台車にすることに決定した。

真紀ちゃんにそのことを話す。

そして受験場には私と看護婦のNさんが付き添うことも告げた。

私達が付き添うことについては、「本当は付き添う必要はないんだけど、この前みたいに急に痛くなると大事な受験を中断しなきゃけないことも考えられるから念のために付き添うことにしたよ。」と言う。

真紀ちゃんはすぐに問う。

「先生の火曜日の午後の外来はどうするんですか。」私も即座に答えた。

「今度の外来は調べてみると患者さんが少ないようだし、電話して他の日に来てもらうから心配しなくていいよ。」と。

さらに真紀ちゃんは「Nさんも、せっかくの休みなのに…。」とつぶやく。

「その日はデートもないし、真紀ちゃんのために喜んで行きたいって言ってたよ。」と私は答えた。

真紀ちゃんは白い歯を見せてわずかに笑った。

可愛い。

付き添う二人の都合を心配するところは真紀ちゃんらしい。

2月21日日曜日。

38度の微熱あり。

機嫌は良さそうだ。

新鮮凍結血漿を輸血してから真紀ちゃんの嫌いな点滴を抜く。

点滴を抜くなり受験勉強の開始だ。

それまで点滴内に投与していた痛み止めの麻薬の代わりに、カクテルの痛み止めを内服することにした。

説明したつもりではあったが、「さっきの薬は何ですか。」と質問。

しかも、「お薬飲んでからお腹が痛くなってきたみたい。」と。

真紀ちゃんには、この薬はお腹の動きを良くして、お腹の張りをとるためのものと説明する。

カクテルの薬を飲んで痛くなったのは、飲んだからではなくて、点滴内に入れていた麻薬の効力が切れてきたためであろう。

確かに下腹部を痛がる。

この部分はCTでは腫瘍は存在しなかったので、私はさほど心配はしていなかった。

上腹部に痛みが出現するようなことがあれば要注意だ。

その上腹部、正確に言えば心窩部を押さえるとわずかに痛がる。

この部分が圧迫されないようにしなければなるまい。

あの出血が怖い。

眼球の黄染は昨日よりもいくらか進行しているような気がした。

今日は日曜日なので検査はせず。

今すぐにでも受験させたい。

明日は分からないのだから…。

2月22日。

入学試験をいよいよ明日に控えて、昨日よりは状態は確実に悪化している。

黄疸も進行し、検査上も血清ビリルビン値がさらに上昇している。

熱も39度近くまで上がる。

そして最も恐れていた上腹部に痛みが出現した。

診察すると、右の肋骨の下に小指大から親指大の腫瘤を触れる。

きのうはこんなには触れなかったのに。

腫瘍の増大速度の速さに驚き、この無慈悲な腫瘍が憎い。

真紀ちゃん自身も元気がなく、不安そうだ。

「真紀ちゃん、明日の試験、ファイトある?」と問うと、黙って頷く。

受験勉強にも今一つ力が入らないという感じである。

突然顔を私に向けて「先生、さっき私のお腹を触ってみたんだけど、何か固いしこりがあるんです。これはウンチではないと思うんです。これって何ですか」と心配そうに質問する。

質問は突然であったけれども、その答えは準備していた。

「それはね、ついこの前にお腹にちょっと出血したよね。それが固まりになっているだけで、しかも治る過程でだんだん固くなってきてしこりとして触れるんだよ。そういうのを血腫と言うんだよ。」ときわどく答えた。

真紀ちゃんはそれ以上は質問せず受験勉強に向かった。

夜になっても腹痛は持続し、しかも嘔気が出現した。

真紀ちゃんは痛みの和らぐような姿勢をとるために、上を向いたり、右や左に体位を変えた。

辛そうである。

午後9時半過ぎに付き添っていた母親をナースステーションに呼んで話しをする。

「急変することがあるとしたらお腹の出血ですが、その他に膵臓の頭部に転移した腫瘍が増大していて、そのための腹痛と黄疸の進行が現在の問題点です。こういう状態で明日の入学試験があるわけですが、真紀ちゃんの具合によっては、受験できなかったり、途中で中止せざるを得ない場合もあり得ると考えています。でも僕が受験を中止させたくても、あの気丈な真紀ちゃんが拒否したらどうしましょうか。」と母親に説明する。

「ここまであの子は頑張ったのですから、あの子の気のすむようにさせて下さい。お願いします。」
母親はハンカチを目に当てながら静かに答えた。

すでに準備してある明日必要な物品の確認をする。

座椅子、輸血製剤から痛み止めの注射薬、酸素ボンベにマスク、点滴セットそして蘇生道具と薬品。

こういう物品を使いたくないな。

でも使う羽目になるかもしれない。

緊張してくる。

病院で受験できないことを残念に思う。

少なくともあの高校で命を落とすことがないようにしよう。

その範囲内で真紀ちゃんの好きなようにさせてあげよう。

彼女の意識がある限り。

今夜は眠れそうもないな。

そんな気がした。

6.入学試験

2月23日、試験当日。

睡眠不足の目をこすりながら真紀ちゃんの部屋に行く。

すでに両親もそろっている。

父親は唇をかみしめることによって、極まりつつある感情を押し殺しているように思える。

母親はいつもと見た目は変わりない。

両親は昨夜はどのようなことを思っていたんだろうか。

真紀ちゃんは熱は微熱程度だが、痛みを必死にこらえている。

今ごろになっても医師として、命を落とすかもしれない場所へ患者を連れて行っていいものか反問する。

しかし、真紀ちゃんにとっては受験は未来へ繋ぐ希望の架け橋なのだから、真紀ちゃんにとってきっといいことをしてるんだと信じることによって、私自身の最終的な決断はさらに固まった。

パジャマ姿の真紀ちゃんを診察する。

きのうと同じ部分を痛がっている。

しかも、真紀ちゃんに血の固まりと説明したしこりはさらに大きくなっている。

聡明な真紀ちゃんも気がついているかもしれない。

一緒に受験場に付き添う看護婦のNさんと必要な物品のチェックをする。

Nさんも顔がこわばっている。

その場に居合わせた看護婦、医者達も私達を激励する。

口には出さないが彼らに感謝する。

8時過ぎに民間の寝台車の運転手と助手が病棟に到着した。

予定通りだ。

もっと若い人達が来るだろうと思っていたがどう見ても二人とも60歳過ぎに見えた。

そして頼りなく思えた。

しかし、要領は得ないものの、身体を動かすのは苦にしないようで、私達が準備した物品を寝台車に運んでくれた。

再び真紀ちゃんの部屋に行く。

パジャマ姿の真紀ちゃんではなかった。

紺のセーラー服に着替えて、車椅子に座っていた。

ただ、着替える時か車椅子に移動する時にかなり身体を捻るなりしたせいか、手で腹部を押さえて、目を細めて眉間には皺を寄せていた。

よっぽど痛いようだ。

「真紀ちゃん、大丈夫かい。」と問う。

真紀ちゃんは唇を噛みしめて頷き、そのまま下を向いてしまった。

父親が私の方を向いて頷く。

「さあ、行こうか。」そう言って、私は車椅子を押し始めた。

病棟の廊下をゆっくり歩く。

真紀ちゃんは下を向いたままだ。

病棟を出る時、看護婦と医者達から真紀ちゃんに声援が飛んだ。

真紀ちゃんはわずかに首を上げ、声援に応えた。

わずかばかりの時間のエレベーターの中で、真紀ちゃんは右の肋骨の下を押さえながら、口を開いた。

「先生、本当に私は試験を受けられるんでしょうか。」この質問には二通りの解釈ができよう。

一つは受験してその後の身体は大丈夫なのかと。

もう一つは、こんなに状態が悪いのに受験できるなんんて信じられないという意味である。

その時は前者に聞こえた。

「当たり前だよ。先生たちもついているしさあ。」真紀ちゃんは目に涙を貯め、エレベーターのドアが開く頃には頬を伝わって行く。

病院の玄関を出たところで真紀ちゃんを車椅子からストレッチャーに移す。

真紀ちゃんの身体を捻ったり、お腹を圧迫しないように気を使う。

それでも真紀ちゃんは顔をしかめる。

寝台車には真紀ちゃんと私とNさんが乗り、両親は自家用車で後を追うことになった。

寝台車の運転手には車が揺れて真紀ちゃんの負担にならないようにゆっくり運転するようにと頼む。

エンジンの回る低い振動が伝わってくる。

寝台車では横になっている真紀ちゃんと真向かいに私とNさんが座る。

いよいよ病院を出発だ。

病院を出てまもなくして曲がりくねった坂道を登って行く。

ストレッチャーに横になった真紀ちゃんは、車椅子よりも楽そうに見える。

ひと安心だ。

目は開いたり閉じたりしている。

坂を登りきった頂点のT字路の信号で車は停止した。

真紀ちゃんが思いがけなく口を開いた。

「先生、この信号を左に曲がると左手に私の中学校が見える筈です。」信号が青になって車はゆっくり左折した。

私とNさんと立ち上がって真紀ちゃんの言う方向を眺めた。

学校のような建物が見えたが一瞬であった。

真紀ちゃんは微笑んだ。

久し振りの笑顔であった。

笑顔のまま、私達に視線を向けて話しかける。

「その中学校の近くに私の家があるんです。」Nさんが「ああ、そう。」と言って優しく微笑み返した。

午前8時40分にA高校に到着。

試験開始まで十分に時間がある。

他の受験生の目に入らないように出発時間を早めたつもりではあったが、すでに多くの受験生が緊張した面持ちで歩いていた。

そのうち何人かは、見た目は救急車に似たこの寝台車に目を移した。

寝台車は正門から入り、すぐに左に折れて細い路に入って行く。

保健室の裏口に保健のS先生が心配そうに立っているのが目に入る。

寝台車はバックから入り、停止した。

運転手と助手が急いで後部のドアを開けた。

冷気が入り込んだ。

真紀ちゃんは寒そうな素振りは見せない。

ストレッチャーごとの移送が始まった。

運転手と助手がゆっくり運ぶ。

両親も到着し、顔をこわばらせている。

私達はとりあえず必要なものを持って、ストレッチャーの後をついて行った。

裏口から保健室に入る。

校長と会った時と同じようにベッドが3つ置いてあって、中央のベッドに真紀ちゃんを移す。

ゆっくり移したが真紀ちゃんの顔が歪む。

身体を捻ったりあるいは腹部に圧が加わるだけで、腹部の腫瘍が破綻し出血する心配があった。

できれば横になってほしかった。

しかし、横になることを拒み、座位をとった。

ベッドのオーバーテーブルに手を置く。

S先生が真紀ちゃんのベッドの横に来て話しかける。

「真紀ちゃん、無理しなくていいですからね。何か手伝うことがあったら私達に言って下さいね。何か必要なものはありますか。」真紀ちゃんは別のことを考えていた。

「あのー、試験開始まで参考書を見てもいいですか。」と問う。

「ええ、いいわよ。」S先生は微笑んで答えた。

真紀ちゃんが参考書を開き始めると、私達は白いカーテンで仕切られた奥に用意された私達用の椅子に座った。

両親は真紀ちゃんの隣にいて、彼女をじっと見つめている。

「何とか試験を受けられそうだね。」とNさんに話しかけた。

「そうですね。」Nさんは私の目を覗き込むようにして笑う。

「先生、保健のS先生ってきれいな方ですね。優しいし…。先生が一生懸命になる理由が分かります。」Nさんはそう言って何かメモをとり始めた。

「何を馬鹿なことを言ってんだよ。」と言い返す。

Nさんは下を向いたまま笑いながら「そうですかねー。病院に帰ったら、みんなに言おうっと。」こちらも笑ってしまう。

Nさんは私をリラックスさせるためにそう言ったのだろう。

私は用意した単行本をポケットから取り出した。

カーテン越しに真紀ちゃんが見える。参考書に目を凝らしているが、時々右の上腹部に手を当てて目を細める。だいぶ痛むようだ。

私は立ちあがって、真紀ちゃんの横に行く。

「真紀ちゃん、大丈夫。」

「大丈夫です。」と頷く。

受験開始数分前に、真紀ちゃん専属の試験監督の教師が保健室に入室する。

両親は彼女を激励して父兄の控え室に向かった。

真紀ちゃんも参考書をベッドの傍らにしまった。

目を閉じている。

数枚に綴じられた国語の試験問題用紙が配られる。

真紀ちゃんは目を閉じたままだ。

そのうち試験開始の合図のチャイムが鳴った。

真紀ちゃんは鉛筆をとった。

文字通り彼女の命をかけた入学試験の開始である。

「真紀ちゃん、がんばってね。」とNさんが激励する。

「はい。」と力強く答える。

胸が熱くなってくる。

カーテンの奥に退く。

保健室の窓から外に視線を向けるが目には何もとまらない。

いつのまにか、Nさんも隣にいる。

Nさんの目は溢れるほどの涙を浮かべている。

私も窓の外を見ながら、白衣の袖で目を拭う。

「Nさん、今、涙を見せるのはよそう。」

「はい。」Nさんは唇を噛み締めた。

私達は再び椅子に座った。

すぐ近くには試験監督の先生が椅子に座ったまま真紀ちゃんの方を見ていた。

カーテンの向こう側から試験問題用紙をめくってるのだろうか、紙の擦れる音が耳に入る。

カーテンの横から真紀ちゃんの様子を覗く。

ベッドに座ってオーバーテーブルの試験問題に取り組んでいる。

歯を食いしばっているようだ。

痛々しいが心打たれる。

私は特に尿意をもよおした訳でもないのだが、トイレに行くことにする。

用をすますと、後ろから私の名前を呼ぶ女性の声が聞こえる。

振り返ると数年前に白血病で亡くなった女の子の母親のKさんだった。

驚いたが、軽く会釈する。

「先生、相変わらず頑張ってらっしゃるようですね。先生、あの子もきっとガンなんでしょう。きっとそうだと思います。先生が付き添って来られるんだから。先生、あの子のために頑張って下さいね。」私は頷いた。

「ところでKさんはどうしてここにいるんですか。」

「はい。用務員なんです。今あの子がいる保健室は私がお掃除したんです。きれいでしたでしょう。」

「お父さんは元気ですか」

「はい。今は大学の図書館に勤めているんですよ。」にこにこして答える。

Kさん夫婦は娘が末期的状態直前に、心霊術の虜になった。

フィリピンに行けば治ると言われ、私の反対を押し切ってなかば強行的に娘と共にフィリピンに出国した。

しかし帰国後再び再入院し、まもなく亡くなった。

この両親は娘が助かると言われた方にかけた。

進む方向は誤りであったが娘のために精一杯闘った両親だった。

私はKさんに頭を下げて、保健室に戻った。

単行本を開く。

全然ページが進まない。

真紀ちゃんが試験問題用紙をめくる音だけが痛々しい響きに聞こえてくる。

国語の試験終了のチャイムが鳴った。

真紀ちゃんは鉛筆をテーブルに置く。

試験監督は解答つきの試験用紙を持って行く。

私達も真紀ちゃんの横に行く。

座ったまま頑張った真紀ちゃんの労をねぎらった。

Nさんが血圧を測りながら、「どうだった?」と聞く。

「まあまあです。」と答える。

しかも私達に笑顔を見せたのである。

両親も保健室に入って来る。

真紀ちゃんの笑顔を見てほっとしている様子だ。

血圧はやや高めであるが、緊張する受験場だから仕方あるまい。

痛み止めの麻薬入りのカクテルを内服させる。

その後真紀ちゃんが辛そうな顔をして苦しいと言う。

痛みからの苦しさと思ったが、息苦しいと言う。

S先生も来て、私もNさんも横になるように勧めるが、「大丈夫です。このままで頑張ります。」と言って拒否した。

試験監督の先生が入室して来るや、両親は退室した。

社会の試験開始。

始まるなり、右手に鉛筆を持って問題に取り組んだかと思えば、真紀ちゃんは左手を右の肋骨の株を押さえ、眉間に皺を寄せ、時には目を閉じる。

その繰り返しが続く。

Nさんが心配して、「先生、何かきつそうですね。どうします。」と言う。

「嫌がるかもしれないけど、酸素を使おうか。次の休み時間に酸素を使うかどうか、真紀ちゃんにきいてみよう。」

遠くから真紀ちゃんの顔を見ると国語の試験の時よりも更に辛そうに見える。

相変わらず、右の上腹部に左手を当てている。

不安になってくる。

最後までもつだろうか。

カーテンに背を向けていると、試験用紙をめくる音が聞こえてくる。

その音がしばらくの間止むと、心配になって真紀ちゃんを覗く。

祈るような気持ちで社会の試験が終了するのを待つ。

国語と同じ時間なのに倍以上に長く思えた。

社会の試験が終了する。

両親も入室して来るが、心配そうだ。

真紀ちゃんは今度は笑顔を見せない代わりに、涙を流す。

座った姿勢からとうとう自ら横になった。

「痛くて、苦しくて。」と顔をしかめながら話す。

Nさんが「酸素を吸うと楽になるって先生が言ってたけど、どうする?」と言うと、「お腹が張って苦しいだけですから、大丈夫です。」と拒んだ。

次に私が「よし、じゃあ痛み止めの注射をしようか。」と言うと首を横に振った。

血圧は国語の終了時よりもやや高い。

次の数学の試験の対応について検討する。

真紀ちゃんの背中に板を置き、背もたれにして受験することになった。

数学の試験が開始された。

早くすべての試験が無事に終了してほしい。

誰もがそう願っただろう。

カーテン越しに覗くと、辛そうにはしているが試験問題に懸命に取り組んでいる。

急変は無さそうに見える。

腹痛を我慢しながらの数学の試験は残酷な気がしてならない。

真紀ちゃん、頑張れと叫びたい衝動にかられる。

長い時間が過ぎる。

数学の試験も大事が発生せずに終了した。

50分の昼食時間に入った。

私は真紀ちゃんに不用意な質問をしてしまった。

「数学の試験はどうだった?」「あんまりできなかった。」と顔を曇らせた。

父親が注文したという寿司が配られた。

私達はその寿司弁当を奥に持って行く。

向こうでは、真紀ちゃんが何やらわがままをいってるらしい。

私達に遠慮している分だけ、両親に当たっているのかもしれない。

真紀ちゃんは横になったまま、コーヒー牛乳とイチゴを口にした。

血圧は変化はないが体温がやや上昇してきている。

腹部は依然張っている。

そのための息苦しさもあるようで、呼吸数も30回近くと多くなってきた。

右の上腹部を押さえながら、次の試験科目である理科の参考書を見ている。

真紀ちゃんに痛み止めの注射を勧めるが、今度もまた注射なしで頑張るとの返事であった。

午後の理科の試験が開始される。

数学の時よりも座るというよりも横になった体位になった。

ほとんど仰向けの体位だ。

その方がお腹の圧迫も少なくて楽な筈だ。

そのためか社会や数学の時よりも楽そうに見える。

しかし、時々目を閉じ、唇を噛み締めて苦痛を堪えるような表情を見せる。

その度に彼女に声援をおくりたくなった。

真紀ちゃんの姿をみると、時に怠惰になる自分が恥ずかしくなる。

真紀ちゃんの前では、疲れているから何々ができないなんて言えないと思う。

理科の試験が終わって真紀ちゃんを近くから見ると顔面蒼白に見えた。

血圧の下降はないが、お腹に少なからず出血しているかもしれない。

予定のカクテルを内服させる。

私達が心配していた割には真紀ちゃんは私達に笑って見せ、少し眠くなってきたと言う。

その後に予想もしてない質問を私に投げかけた。

「病院に帰ったらまた点滴するんですか。」答えを準備してなかったが、咄嗟に「しないよ。」と答えた。

それを聞いて彼女はわずかに笑う。

退室間際に父親が「後、一時間ですね。」と言い残して母親と出て行く。

いよいよ最後の試験である、英語が開始された。

この一時間を何としてでも乗り切ってほしい。

両親と私達だけでなく、病院での受験は認めなかったが、ここまで協力した校長もS先生も他の教師も同じ願いに違いなかった。

この時間の真紀ちゃんはほとんど仰向けなったままの受験となった。

準備してあった書見台に試験問題用紙を挟んで問題を懸命に解いている。

時々、目を閉じて眉間に皺を寄せる。

私は、もう少しだ、お願い、頑張れと口を震わす。

願いが通じたのか、最後の試験科目はさほどの苦痛はなかったような感じがした。

終了のチャイムが鳴った。

思わずNさんと顔を見合わせる。

すぐに真紀ちゃんの横に行く。

「真紀ちゃん、お疲れさん。」と声をかける。

横になったまま彼女は「先生、Nさん、今日はどうもありがとうございました。」と頭を下げる。

頭を上げると唇を噛んで、泣き出すのを堪えているようであった。

私も必死に堪えた。

Nさんもがまんしている。

「いやあ、よく頑張ったね。真紀ちゃん。」いつの間にかそこにいたS先生がほめた。

校長も真紀ちゃんの健闘を称えた。

母親も父親も目を赤くしている。

帰り仕度が始まり、また運転手と助手がやって来る。

用務員のKさんが来る。

私に紙袋を渡した。

「先生、ご苦労様でした。これは防腐剤の入ってないお菓子ですからできるだけ早く召し上がって下さい。」と言う。

中を覗きこむと、きれいに包装されている箱詰めの菓子らしい。

いつこんなものを準備したんだろう。

前から私が来ることを知っていたのかもしれない。

真紀ちゃんをストレッチャーに移す時には身体を捻らないように注意する。

移し終わると真紀ちゃんは静かに目を閉じていた。

私達も寝台車に乗り込む。

保健室の裏口にはS先生とKさんが立ったまま、私達に頭を下げ、寝台車が見えなくなるまで見送った。

病院へ帰る途中、受験場に行く時に中学校の近くに私の家があると言った付近を通りかかった。

運転手さん、右に曲がって真紀ちゃんの家に行きますと言おうと思ったが、思いとどまった。

真紀ちゃんは長時間の死闘とも言える壮絶な闘いに疲れ果てたのだろう。

寝台車の中でも、病院に到着するまで目を閉じたままであった。

高校入試という真紀ちゃんの壮絶な闘いは終わった。

しかも、まさに命をかけた闘いになったのである。

7.そして、他界

病院に到着し、玄関前に車が停車すると、帰りの寝台車の中で横たわったままほとんど目を閉じていた真紀ちゃんは、うっすらと目を開ける。

運転手と助手があわただしく動き回る。

「ここから病棟まではこのままストレッチャーで行こうか。」と問うと。

彼女は力なく首を横に振る。

ストレッチャーの方が楽には違いなかった。

「病棟を出発した時と同じように車椅子で帰りたいんです。」ストレッチャーから車椅子に移す。

今度は辛そうな表情は見せなかった。

車椅子の彼女はエレベーターの中でも下を向いたままだ。

病棟に着くと、その場に居合わせた看護婦達が出迎えてくれた。

「真紀ちゃん、お帰り。」「真紀ちゃん、よく頑張ったね。」みんなが声をかける。

車椅子の真紀ちゃんはわずかに会釈して、辛そうな顔をしながら、再び下を向いた。

真紀ちゃんが座ってる車椅子を、彼女の係りの看護婦にバトンタッチする。

私はため息をついた。

ナースステーションから廊下に半歩ほど出て、真紀ちゃんの部屋の入り口の方に視線をやる。

そのうち、真紀ちゃんの乗った車椅子が見えて来る。

部屋の前で止まった。

真紀ちゃんは下を向いたまま、声を噛み殺したように泣き出す。

嗚咽が聞こえてくる。

看護婦もその部屋の前で立ち尽くす。

遠くからも彼女の頬が濡れているのが見える。

そのうち、看護婦が真紀ちゃんにひとことふたこと言って彼女の車椅子を押し始め、部屋に入って行った。

この後のことを詳しく記述するのは止めよう。

真紀ちゃんは508号室に入って間もなく、激しい腹痛と息苦しさを訴えた。

彼女の嫌いな点滴をつなぎ、鎮痛剤の投与と酸素マスクを付ける。

出血による貧血も認められたので輸血を続ける。

しかし、しだいに全身状態は不良になり、両親に見守られながら静かに他界した。

私はカルテに書き記す。

[ 本日の真紀ちゃんの死については、受験したことが悪影響を及ぼしたのは、私も認めよう。

文字通り、真紀ちゃんは受験に命をかけることになった。

ただ、真紀ちゃんにとっては、今後に希望を繋ぐ受験であったに違いない。

私達(両親を含めて)は、受験場で真紀ちゃんが急変するかもしれないこと、そして結果的には死期を早めるかもしれないことを覚悟の上で、受験に協力、応援してきた。

受験場で泣きながら痛みに耐え、酸素マスクや鎮痛剤を拒否し、試験問題に取り組んでいったあの真紀ちゃんの姿を見た時、そしてすべての試験が終了して、看護婦のNさんと私に「どうもありがとうございました。」と言ってくれた時、受験させて良かったと思った。

そして、真紀ちゃんが他界した今もまた、その気持ちは変わらない。

2年5ヶ月の間の真紀ちゃんの「どうして治らないんですか。」という言葉が耳をつんざくが、2月23日のあの真紀ちゃんの壮絶な闘いと、時折り見せてくれた笑顔を忘れはしない。

さよなら、真紀ちゃん。

S.63 2.24.4:00AM   ]

声の欄

1999年の1月末頃、朝日新聞の「声」の欄に投稿しました。
入院中にも懸命に受験勉強をしていた、中学3年生の女の子について書いたものです。
危険な状態の子が安心して受験できるように投稿しました。
掲載された後に、教育委員会からも電話をもらいました。これから善処すると。それでもあまり暖かい響きではなかったように思います。
教育って、心の暖かさを培ってほしいと思います。教育者自らが言葉だけでなく、行動で生徒たちに示してほしいと思っています。
その後、小生が聖マリアンナ医科大学の小児科に入局してから、患児への優しさを教えて下さった当時の教授の水原晴郎先生(お父さんは俳人で医者でもあった水原秋桜子) 1999年9月号の「馬酔木」に、その投稿文と小生について掲載されました。それをこの場を借りて載せたいと思います。

この患者であるMaki-chanの記録

1999年(平成11年)2月2日の朝日新聞「声」

1999年「馬酔木」9月号の22から23ページ