2月23日、試験当日。
睡眠不足の目をこすりながら真紀ちゃんの部屋に行く。
すでに両親もそろっている。
父親は唇をかみしめることによって、極まりつつある感情を押し殺しているように思える。
母親はいつもと見た目は変わりない。
両親は昨夜はどのようなことを思っていたんだろうか。
真紀ちゃんは熱は微熱程度だが、痛みを必死にこらえている。
今ごろになっても医師として、命を落とすかもしれない場所へ患者を連れて行っていいものか反問する。
しかし、真紀ちゃんにとっては受験は未来へ繋ぐ希望の架け橋なのだから、真紀ちゃんにとってきっといいことをしてるんだと信じることによって、私自身の最終的な決断はさらに固まった。
パジャマ姿の真紀ちゃんを診察する。
きのうと同じ部分を痛がっている。
しかも、真紀ちゃんに血の固まりと説明したしこりはさらに大きくなっている。
聡明な真紀ちゃんも気がついているかもしれない。
一緒に受験場に付き添う看護婦のNさんと必要な物品のチェックをする。
Nさんも顔がこわばっている。
その場に居合わせた看護婦、医者達も私達を激励する。
口には出さないが彼らに感謝する。
8時過ぎに民間の寝台車の運転手と助手が病棟に到着した。
予定通りだ。
もっと若い人達が来るだろうと思っていたがどう見ても二人とも60歳過ぎに見えた。
そして頼りなく思えた。
しかし、要領は得ないものの、身体を動かすのは苦にしないようで、私達が準備した物品を寝台車に運んでくれた。
再び真紀ちゃんの部屋に行く。
パジャマ姿の真紀ちゃんではなかった。
紺のセーラー服に着替えて、車椅子に座っていた。
ただ、着替える時か車椅子に移動する時にかなり身体を捻るなりしたせいか、手で腹部を押さえて、目を細めて眉間には皺を寄せていた。
よっぽど痛いようだ。
「真紀ちゃん、大丈夫かい。」と問う。
真紀ちゃんは唇を噛みしめて頷き、そのまま下を向いてしまった。
父親が私の方を向いて頷く。
「さあ、行こうか。」そう言って、私は車椅子を押し始めた。
病棟の廊下をゆっくり歩く。
真紀ちゃんは下を向いたままだ。
病棟を出る時、看護婦と医者達から真紀ちゃんに声援が飛んだ。
真紀ちゃんはわずかに首を上げ、声援に応えた。
わずかばかりの時間のエレベーターの中で、真紀ちゃんは右の肋骨の下を押さえながら、口を開いた。
「先生、本当に私は試験を受けられるんでしょうか。」この質問には二通りの解釈ができよう。
一つは受験してその後の身体は大丈夫なのかと。
もう一つは、こんなに状態が悪いのに受験できるなんんて信じられないという意味である。
その時は前者に聞こえた。
「当たり前だよ。先生たちもついているしさあ。」真紀ちゃんは目に涙を貯め、エレベーターのドアが開く頃には頬を伝わって行く。
病院の玄関を出たところで真紀ちゃんを車椅子からストレッチャーに移す。
真紀ちゃんの身体を捻ったり、お腹を圧迫しないように気を使う。
それでも真紀ちゃんは顔をしかめる。
寝台車には真紀ちゃんと私とNさんが乗り、両親は自家用車で後を追うことになった。
寝台車の運転手には車が揺れて真紀ちゃんの負担にならないようにゆっくり運転するようにと頼む。
エンジンの回る低い振動が伝わってくる。
寝台車では横になっている真紀ちゃんと真向かいに私とNさんが座る。
いよいよ病院を出発だ。
病院を出てまもなくして曲がりくねった坂道を登って行く。
ストレッチャーに横になった真紀ちゃんは、車椅子よりも楽そうに見える。
ひと安心だ。
目は開いたり閉じたりしている。
坂を登りきった頂点のT字路の信号で車は停止した。
真紀ちゃんが思いがけなく口を開いた。
「先生、この信号を左に曲がると左手に私の中学校が見える筈です。」信号が青になって車はゆっくり左折した。
私とNさんと立ち上がって真紀ちゃんの言う方向を眺めた。
学校のような建物が見えたが一瞬であった。
真紀ちゃんは微笑んだ。
久し振りの笑顔であった。
笑顔のまま、私達に視線を向けて話しかける。
「その中学校の近くに私の家があるんです。」Nさんが「ああ、そう。」と言って優しく微笑み返した。
午前8時40分にA高校に到着。
試験開始まで十分に時間がある。
他の受験生の目に入らないように出発時間を早めたつもりではあったが、すでに多くの受験生が緊張した面持ちで歩いていた。
そのうち何人かは、見た目は救急車に似たこの寝台車に目を移した。
寝台車は正門から入り、すぐに左に折れて細い路に入って行く。
保健室の裏口に保健のS先生が心配そうに立っているのが目に入る。
寝台車はバックから入り、停止した。
運転手と助手が急いで後部のドアを開けた。
冷気が入り込んだ。
真紀ちゃんは寒そうな素振りは見せない。
ストレッチャーごとの移送が始まった。
運転手と助手がゆっくり運ぶ。
両親も到着し、顔をこわばらせている。
私達はとりあえず必要なものを持って、ストレッチャーの後をついて行った。
裏口から保健室に入る。
校長と会った時と同じようにベッドが3つ置いてあって、中央のベッドに真紀ちゃんを移す。
ゆっくり移したが真紀ちゃんの顔が歪む。
身体を捻ったりあるいは腹部に圧が加わるだけで、腹部の腫瘍が破綻し出血する心配があった。
できれば横になってほしかった。
しかし、横になることを拒み、座位をとった。
ベッドのオーバーテーブルに手を置く。
S先生が真紀ちゃんのベッドの横に来て話しかける。
「真紀ちゃん、無理しなくていいですからね。何か手伝うことがあったら私達に言って下さいね。何か必要なものはありますか。」真紀ちゃんは別のことを考えていた。
「あのー、試験開始まで参考書を見てもいいですか。」と問う。
「ええ、いいわよ。」S先生は微笑んで答えた。
真紀ちゃんが参考書を開き始めると、私達は白いカーテンで仕切られた奥に用意された私達用の椅子に座った。
両親は真紀ちゃんの隣にいて、彼女をじっと見つめている。
「何とか試験を受けられそうだね。」とNさんに話しかけた。
「そうですね。」Nさんは私の目を覗き込むようにして笑う。
「先生、保健のS先生ってきれいな方ですね。優しいし…。先生が一生懸命になる理由が分かります。」Nさんはそう言って何かメモをとり始めた。
「何を馬鹿なことを言ってんだよ。」と言い返す。
Nさんは下を向いたまま笑いながら「そうですかねー。病院に帰ったら、みんなに言おうっと。」こちらも笑ってしまう。
Nさんは私をリラックスさせるためにそう言ったのだろう。
私は用意した単行本をポケットから取り出した。
カーテン越しに真紀ちゃんが見える。参考書に目を凝らしているが、時々右の上腹部に手を当てて目を細める。だいぶ痛むようだ。
私は立ちあがって、真紀ちゃんの横に行く。
「真紀ちゃん、大丈夫。」
「大丈夫です。」と頷く。
受験開始数分前に、真紀ちゃん専属の試験監督の教師が保健室に入室する。
両親は彼女を激励して父兄の控え室に向かった。
真紀ちゃんも参考書をベッドの傍らにしまった。
目を閉じている。
数枚に綴じられた国語の試験問題用紙が配られる。
真紀ちゃんは目を閉じたままだ。
そのうち試験開始の合図のチャイムが鳴った。
真紀ちゃんは鉛筆をとった。
文字通り彼女の命をかけた入学試験の開始である。
「真紀ちゃん、がんばってね。」とNさんが激励する。
「はい。」と力強く答える。
胸が熱くなってくる。
カーテンの奥に退く。
保健室の窓から外に視線を向けるが目には何もとまらない。
いつのまにか、Nさんも隣にいる。
Nさんの目は溢れるほどの涙を浮かべている。
私も窓の外を見ながら、白衣の袖で目を拭う。
「Nさん、今、涙を見せるのはよそう。」
「はい。」Nさんは唇を噛み締めた。
私達は再び椅子に座った。
すぐ近くには試験監督の先生が椅子に座ったまま真紀ちゃんの方を見ていた。
カーテンの向こう側から試験問題用紙をめくってるのだろうか、紙の擦れる音が耳に入る。
カーテンの横から真紀ちゃんの様子を覗く。
ベッドに座ってオーバーテーブルの試験問題に取り組んでいる。
歯を食いしばっているようだ。
痛々しいが心打たれる。
私は特に尿意をもよおした訳でもないのだが、トイレに行くことにする。
用をすますと、後ろから私の名前を呼ぶ女性の声が聞こえる。
振り返ると数年前に白血病で亡くなった女の子の母親のKさんだった。
驚いたが、軽く会釈する。
「先生、相変わらず頑張ってらっしゃるようですね。先生、あの子もきっとガンなんでしょう。きっとそうだと思います。先生が付き添って来られるんだから。先生、あの子のために頑張って下さいね。」私は頷いた。
「ところでKさんはどうしてここにいるんですか。」
「はい。用務員なんです。今あの子がいる保健室は私がお掃除したんです。きれいでしたでしょう。」
「お父さんは元気ですか」
「はい。今は大学の図書館に勤めているんですよ。」にこにこして答える。
Kさん夫婦は娘が末期的状態直前に、心霊術の虜になった。
フィリピンに行けば治ると言われ、私の反対を押し切ってなかば強行的に娘と共にフィリピンに出国した。
しかし帰国後再び再入院し、まもなく亡くなった。
この両親は娘が助かると言われた方にかけた。
進む方向は誤りであったが娘のために精一杯闘った両親だった。
私はKさんに頭を下げて、保健室に戻った。
単行本を開く。
全然ページが進まない。
真紀ちゃんが試験問題用紙をめくる音だけが痛々しい響きに聞こえてくる。
国語の試験終了のチャイムが鳴った。
真紀ちゃんは鉛筆をテーブルに置く。
試験監督は解答つきの試験用紙を持って行く。
私達も真紀ちゃんの横に行く。
座ったまま頑張った真紀ちゃんの労をねぎらった。
Nさんが血圧を測りながら、「どうだった?」と聞く。
「まあまあです。」と答える。
しかも私達に笑顔を見せたのである。
両親も保健室に入って来る。
真紀ちゃんの笑顔を見てほっとしている様子だ。
血圧はやや高めであるが、緊張する受験場だから仕方あるまい。
痛み止めの麻薬入りのカクテルを内服させる。
その後真紀ちゃんが辛そうな顔をして苦しいと言う。
痛みからの苦しさと思ったが、息苦しいと言う。
S先生も来て、私もNさんも横になるように勧めるが、「大丈夫です。このままで頑張ります。」と言って拒否した。
試験監督の先生が入室して来るや、両親は退室した。
社会の試験開始。
始まるなり、右手に鉛筆を持って問題に取り組んだかと思えば、真紀ちゃんは左手を右の肋骨の株を押さえ、眉間に皺を寄せ、時には目を閉じる。
その繰り返しが続く。
Nさんが心配して、「先生、何かきつそうですね。どうします。」と言う。
「嫌がるかもしれないけど、酸素を使おうか。次の休み時間に酸素を使うかどうか、真紀ちゃんにきいてみよう。」
遠くから真紀ちゃんの顔を見ると国語の試験の時よりも更に辛そうに見える。
相変わらず、右の上腹部に左手を当てている。
不安になってくる。
最後までもつだろうか。
カーテンに背を向けていると、試験用紙をめくる音が聞こえてくる。
その音がしばらくの間止むと、心配になって真紀ちゃんを覗く。
祈るような気持ちで社会の試験が終了するのを待つ。
国語と同じ時間なのに倍以上に長く思えた。
社会の試験が終了する。
両親も入室して来るが、心配そうだ。
真紀ちゃんは今度は笑顔を見せない代わりに、涙を流す。
座った姿勢からとうとう自ら横になった。
「痛くて、苦しくて。」と顔をしかめながら話す。
Nさんが「酸素を吸うと楽になるって先生が言ってたけど、どうする?」と言うと、「お腹が張って苦しいだけですから、大丈夫です。」と拒んだ。
次に私が「よし、じゃあ痛み止めの注射をしようか。」と言うと首を横に振った。
血圧は国語の終了時よりもやや高い。
次の数学の試験の対応について検討する。
真紀ちゃんの背中に板を置き、背もたれにして受験することになった。
数学の試験が開始された。
早くすべての試験が無事に終了してほしい。
誰もがそう願っただろう。
カーテン越しに覗くと、辛そうにはしているが試験問題に懸命に取り組んでいる。
急変は無さそうに見える。
腹痛を我慢しながらの数学の試験は残酷な気がしてならない。
真紀ちゃん、頑張れと叫びたい衝動にかられる。
長い時間が過ぎる。
数学の試験も大事が発生せずに終了した。
50分の昼食時間に入った。
私は真紀ちゃんに不用意な質問をしてしまった。
「数学の試験はどうだった?」「あんまりできなかった。」と顔を曇らせた。
父親が注文したという寿司が配られた。
私達はその寿司弁当を奥に持って行く。
向こうでは、真紀ちゃんが何やらわがままをいってるらしい。
私達に遠慮している分だけ、両親に当たっているのかもしれない。
真紀ちゃんは横になったまま、コーヒー牛乳とイチゴを口にした。
血圧は変化はないが体温がやや上昇してきている。
腹部は依然張っている。
そのための息苦しさもあるようで、呼吸数も30回近くと多くなってきた。
右の上腹部を押さえながら、次の試験科目である理科の参考書を見ている。
真紀ちゃんに痛み止めの注射を勧めるが、今度もまた注射なしで頑張るとの返事であった。
午後の理科の試験が開始される。
数学の時よりも座るというよりも横になった体位になった。
ほとんど仰向けの体位だ。
その方がお腹の圧迫も少なくて楽な筈だ。
そのためか社会や数学の時よりも楽そうに見える。
しかし、時々目を閉じ、唇を噛み締めて苦痛を堪えるような表情を見せる。
その度に彼女に声援をおくりたくなった。
真紀ちゃんの姿をみると、時に怠惰になる自分が恥ずかしくなる。
真紀ちゃんの前では、疲れているから何々ができないなんて言えないと思う。
理科の試験が終わって真紀ちゃんを近くから見ると顔面蒼白に見えた。
血圧の下降はないが、お腹に少なからず出血しているかもしれない。
予定のカクテルを内服させる。
私達が心配していた割には真紀ちゃんは私達に笑って見せ、少し眠くなってきたと言う。
その後に予想もしてない質問を私に投げかけた。
「病院に帰ったらまた点滴するんですか。」答えを準備してなかったが、咄嗟に「しないよ。」と答えた。
それを聞いて彼女はわずかに笑う。
退室間際に父親が「後、一時間ですね。」と言い残して母親と出て行く。
いよいよ最後の試験である、英語が開始された。
この一時間を何としてでも乗り切ってほしい。
両親と私達だけでなく、病院での受験は認めなかったが、ここまで協力した校長もS先生も他の教師も同じ願いに違いなかった。
この時間の真紀ちゃんはほとんど仰向けなったままの受験となった。
準備してあった書見台に試験問題用紙を挟んで問題を懸命に解いている。
時々、目を閉じて眉間に皺を寄せる。
私は、もう少しだ、お願い、頑張れと口を震わす。
願いが通じたのか、最後の試験科目はさほどの苦痛はなかったような感じがした。
終了のチャイムが鳴った。
思わずNさんと顔を見合わせる。
すぐに真紀ちゃんの横に行く。
「真紀ちゃん、お疲れさん。」と声をかける。
横になったまま彼女は「先生、Nさん、今日はどうもありがとうございました。」と頭を下げる。
頭を上げると唇を噛んで、泣き出すのを堪えているようであった。
私も必死に堪えた。
Nさんもがまんしている。
「いやあ、よく頑張ったね。真紀ちゃん。」いつの間にかそこにいたS先生がほめた。
校長も真紀ちゃんの健闘を称えた。
母親も父親も目を赤くしている。
帰り仕度が始まり、また運転手と助手がやって来る。
用務員のKさんが来る。
私に紙袋を渡した。
「先生、ご苦労様でした。これは防腐剤の入ってないお菓子ですからできるだけ早く召し上がって下さい。」と言う。
中を覗きこむと、きれいに包装されている箱詰めの菓子らしい。
いつこんなものを準備したんだろう。
前から私が来ることを知っていたのかもしれない。
真紀ちゃんをストレッチャーに移す時には身体を捻らないように注意する。
移し終わると真紀ちゃんは静かに目を閉じていた。
私達も寝台車に乗り込む。
保健室の裏口にはS先生とKさんが立ったまま、私達に頭を下げ、寝台車が見えなくなるまで見送った。
病院へ帰る途中、受験場に行く時に中学校の近くに私の家があると言った付近を通りかかった。
運転手さん、右に曲がって真紀ちゃんの家に行きますと言おうと思ったが、思いとどまった。
真紀ちゃんは長時間の死闘とも言える壮絶な闘いに疲れ果てたのだろう。
寝台車の中でも、病院に到着するまで目を閉じたままであった。
高校入試という真紀ちゃんの壮絶な闘いは終わった。
しかも、まさに命をかけた闘いになったのである。