2.それまでの経過

真紀ちゃんは今から2年半前の8月頃から腹痛を訴えるようになった。

鎮痛剤を内服するなどして痛みを凌いでいたが、しだいにそれだけでは痛みが軽減しなくなってきた。

さらに発熱もみるようになった。

近くの病院を受診して、腹部の超音波検査で卵巣腫瘍が疑われ、10月2日に当大学病院の産婦人科で腫瘍摘出術が施行された。

摘出標本の病理検査から悪性リンパ腫と診断され、化学療法の目的で小児科に転科することになった。

当時、私は横須賀の病院の小児科に出張していたこともあって、火曜日の午後の血液腫瘍外来の時は勿論のこと、新しい小児血液腫瘍の患者が入院した時や入院患者にトラブルが発生した時、小児腫瘍患者の受け持ち医が治療上のことで相談を受けた時、そして自分自身が患者のことで気がかりな時に夜な夜な5階東病棟に出没していた。

真紀ちゃんと初めて会った時、色は浅黒く(中学校の部活はソフトボール部で、確か一塁を守っていると話していたような記憶があるが、とにかく練習熱心であったようで)、優しい目をした端正な可愛らしい顔の女の子で、人なつっこく、しかも聡明な印象を与えた。

両親の強い希望で彼女には病名を告知しなかった。

それだけに自分の病状や治療内容に疑問を持ったら、私に対して的を得た質問を浴びせ、私も返答に苦慮することがあった。

逆に彼女にとっては時には私の返答は深刻に響く内容もあった。

質問をする時の真紀ちゃんは、私の目や唇に鋭い視線を向けた。

治療のない日は、病室の彼女よりも小さい患者達の面倒もよく見てくれた。

そして、何と言っても兄さん思いであった。

特に自分が入院することでただ一人の兄弟である兄さんに心配かけちゃいけないとか、母親が真紀ちゃんの見舞いのために兄さんをあまり構わなくなると可愛そうだとか、申し訳なさそうな顔をして話してくれた。

治療経過中に予後不良の兆候も認められたが、完全寛解を達成し、正月開けの一月中旬にはめでたく退院できた。

入院した時に浅黒かった肌もすっかり白くなっていた。

その後は約4週間隔で入院し、再発防止のための約一週間の強化療法が施行された。

真紀ちゃんは、入院することで勉強が遅れることや、部活の同僚達に迷惑をかけることなどを理由に、強化療法で入院することを嫌がったが、決して涙をみせることはなかった。

治療で入院する時以外はほとんど登校し、そしてソフトボールの練習に励み、再び小麦色の肌に戻った。

それはあたかも病気が治ったかのような印象さえ与えた。

しかし、次の正月前から右足の痺れや痛みが出現した。

日光旅行から帰って跛行がみられ、腫瘍の転移あるいは浸潤の疑いにて入院することになった。

右臀部に腫瘍が認められ、化学療法、放射線療法などの治療が施され、腫瘍は消失し痛みは軽減したものの足の痺れは残った。

その後の経過中にCT検査で左の腎臓にも腫瘤が発見された時には私も頭を打ち割られんばかりの衝撃を受けた。

その後の治療も以前にも増して強力な治療が施されることになる。

以前の時点でもそうであったが、骨髄移植を両親に提案したが、いくつかの理由で拒否された。

この年に私は横須賀の病院から大学に復帰した。

真紀ちゃんは足を引きずりながらも登校したが、ボールを追ってグランドを走り回ることはしなくなった。

病魔は痛みをこらえて登校しようとしている彼女を嘲笑するかのように、身体を蝕んでいった。

もう一つの腎臓も、肝臓、そして他の臓器をも.......。

頻回の化学療法を以ってしても悪性細胞の勢いに対しては防戦一方の一年が経過した。

この年の大晦日に真紀ちゃんは持続する発熱と食欲低下のために入院した。

正月を病院で過ごすことになった。

予定では、母親の実家がある日光の近くで楽しむ筈の正月であったのだが。

入院後、腹部の腫瘍部分からの出血によると考えられる症状が出現した。

一時的にショック状態に陥ったのだが、輸血などの処置で急場を凌いだ。

腹部も手で触診すれば容易に分かるほどに腫瘤は増大していた。

しかし、病状はいくらか改善したかのように見え、点滴療法も真紀ちゃんにしてみれば不要に思える程度に和らぐ。

高校入試を約1ヶ月後に控え、真紀ちゃんも受験勉強に焦りを感じ、退院を希望した。

誰にもそうなのだが病気と必死に闘っている真紀ちゃんにとっても高校入試は大問題であり、高校入試なしには彼女の将来は語れないように私には思えた。

そして、化学療法を行った後の1月27日に退院することに決めた。

せめて入試までは、入院するほどのトラブルが起きないように祈った。

だが.....。