F先生と校長との話しで結局、これから私と校長との面談をすることになったと真紀ちゃんの面会に来ていた父親に話す。
父親は、目を潤ませていた。
「先生、病院での受験ができるといいですね。私どもも安心できます。真紀も喜ぶでしょう。先生、私も行きましょうか。私も校長先生に一生懸命にお願いしてみます。行きましょう。」と頭を下げる。
お願いというよりも私は交渉に行くんだと思っていた。
私の車で行く。
父親は助手席だ。
A高校までの道案内は父親にお願いする。
病院からA高校までの道のりで曲がりくねった登り坂の道の頂点のT字路の前を左に折れると真紀ちゃんの家があると父親が教えてくれる。
父親やその高校までの道には結構詳しいらしく、突然、細い路地に入るように丁寧に指示する。
再び私の見慣れた景色にも出会う。
その道すがら、父親は独り言のように口を開く。
「なんとかして、病院で受験できるといいですね。」同感である。
真紀ちゃんのために一歩も引き下がらないつもりで、校長と交渉しなくてはと決意が固くなってくる。
世田谷通りを横切ってしばらく走ると、「あれです。」と父親が指差した。
一戸建て用の土地の中にぽつんぽつんと新築の建て売り住宅が数個見え、その後方にいかにも新しい高校らしい白い大きな建物が目に入った。
「先生、行き過ぎです。ちょっと前を右折するんでした。」と父親が言う。
父親も緊張しているらしかった。
A高校の駐車場に着く。
すでに5時近い時間で構内も静かで、時折り笑い声や友を呼ぶ声が聞こえてくる。
白い大きな建物の方に行くと、クラブ活動の運動着姿の生徒達がいる。
校長室の場所を尋ねた。
父親の顔がこわばっているように見えた。
校長室に案内されてソファで数分待たされた。
「お父さん、病院で受験できるように頑張りましょうね。これだけは譲れないことですから。真紀ちゃんのために。」と言うと、「はあ、お願いします。」と父親は頭を下げて、申し訳なさそうに答える。
二人の男女が入って来る。
まず、若い女性の方に目が行く。
保健のS先生と紹介された。
優しそうな感じできれいな先生だ。
心配そうな顔をして私達を見つめ頭を下げた。
もう一人は校長先生で、当然のことながらかなりの年配で、座り慣れているソファにゆったりとと腰を下ろした。
さっそく、気合の入ってる私から話しを切り出した。
真紀ちゃんにとってこの高校受験の意義と身体を動かすと出血によって命を落とす危険性があることを説明した後に、その問題の解決は病院での受験しかないことを何度か強調する。
その度に人のいい父親は深々と頭を下げる。
しかし、校長は頭を縦には振らなかった。
その理由として、自分の高校以外の場所で受験することの決定権は校長にはないことと、市の教育委員会に電話したところ、前例がないことを上げた。
すかさず、私は「前例がないんだったら、前例を作ってみてはどうでしょうか。病気で苦しむ子の助けになるんですから、拍手喝采されても非難は受けない筈です。それに真紀ちゃんと同じような状態の子供達の励みにもなる筈です。」と食い下がった。
父親はまた頭を下げる。
しかし校長は今度は、自分には受験場を病院にするかどうかの決定権はないことを盾にして首を横に振り続けた。
私達の要望を受け付けてくれなかった。
父親もS先生も沈黙している。
私は今しかチャンスはないと思った。
「先生は常日頃生徒達に障害のある人や弱い人に優しさ施すようにを説いていらっしゃる筈です。校長先生自身が今こそそれを実践すべき時だと思います。それは素晴らしい決断だとみんなが思う筈です。」と、言ってしまう。
私は校長先生を見つめながら『さあ、校長先生、飛んで、今こそ、さあ。』と願った。
校長は口を開こうとしない。
「この高校で他の生徒達と一緒に受験させると、彼女は本当にこの高校で命を落とすかもしれませんよ。」と私は語気を強めた。
校長も眉間に皺を寄せ、困りきった顔をする。
保健のS先生が「そんなに病状はよくないんですか」と心配そうに問う。
「だからこういうお願いをしてるんです」と答えた。
しばらく沈黙の時間があった。
校長も席を立った。
教育委員会に電話するのだろうか。
もう言うだけのことは言ったような気がする。
向こうの出方を待とう。
こちらから話しを再び切り出すこともあるまい。
相手が折れることを祈った。
父親は出されたお茶をすする。
校長が戻ってくる。
ソファに座るなり校長はさっそく口を開く。
「私達も協力しますから、ここの保健室で受験してもらう訳にはいかないでしょうか。私どもも全面的に協力しますから…。必要なものがあったら準備しますから…。それからドクターには来ていただきたいのですが…。もちろん医療器具を持ち込んで下さっても結構です。いえ、そうして下さい。我々も全面的にご協力させていただくということで了解していただけないものでしょうか。」予想していなかった訳でもないが、その案に即座に答えられなかった。
私の横に座っていた父親が私の方を向いた。
「先生にはご迷惑をおかけしますが、先生、今の校長先生のおっしゃることはどうなんでしょうかねえ。」と校長の提案を受けるように催促しているように私には聞こえた。
お父さん、何を言ってるんですか。
何を遠慮されてるんですか。
あなたの娘さんの命がかかってるんですよ、と言いたかったがもう少しやわらかく諭した。
「お父さん、保健室とは言え、受験場で急変する恐れがあるんですよ。危険です。ダメです。真紀ちゃんの命を守りましょう。」と私は父親にささやくように話した。
父親は小声で私に答えた。
「この高校で命を落とすことになっても仕方ありません。これも真紀の運命です。」不意を討たれた気がした。
父親は病院での受験を断念している。
どうする。
どうしたらいいんだ…。
後は私の返事待ちだ。
再び沈黙の時間が流れた。
真紀ちゃんには申し訳ないと思った。
私は校長に視線を向けた。
「じゃあ、お父さんがそうおっしゃるのなら、そうするしかないでしょうから。そうしていただけますか。」するとS先生が間髪を入れずに「真紀ちゃんの受験場所の保健室を案内します。」と言って立ち上がった。
私達は校長と彼女の後をついて行く。
私達が来る前から彼らは保健室での受験を決めていたのだろうか。
そう思えるほどに二人は予定されている行動かのように、真紀ちゃんのベッドは3つベッドのうちの真ん中とか、付き添いの医者はどの場所にいたらいいとか、すべて手際良く私達に説明し、また、他の教室よりもこの保健室は暖房がよくきくなどの快適さを強調する。
私達の希望はかなえられなかったけれども、彼らの好意は一応評価した。
しかし、この保健室で真紀ちゃんが受験しているところを想像すると、恐ろしくもなり、緊張してくる。
病院に帰ると、さっそく真紀ちゃんに、医師が付き添いで保健室で受験することを告げた。
真紀ちゃんは、話しの途中で涙ぐんだ。
「どうもありがとうございました。」と言って頭を下げる。
今の私にはこれぐらいのことしかできないんだと思うと、もうそこには居たたまれなくなった。
その部屋から出る・看護婦たちに今日の校長先生との交渉のことを話すと、真紀ちゃんが受験できるような準備体制を調整することになり、さっそく真紀ちゃんの受験に付き添う看護婦の人選が始まった。
医者は私が行く。
試験当日が血液腫瘍外来だから、予約の患者の振り分けをしなくてはならない。
今から予約の患者を調べて電話しよう。
そして、試験当日に必要な物品選びも開始した。