7.そして、他界

病院に到着し、玄関前に車が停車すると、帰りの寝台車の中で横たわったままほとんど目を閉じていた真紀ちゃんは、うっすらと目を開ける。

運転手と助手があわただしく動き回る。

「ここから病棟まではこのままストレッチャーで行こうか。」と問うと。

彼女は力なく首を横に振る。

ストレッチャーの方が楽には違いなかった。

「病棟を出発した時と同じように車椅子で帰りたいんです。」ストレッチャーから車椅子に移す。

今度は辛そうな表情は見せなかった。

車椅子の彼女はエレベーターの中でも下を向いたままだ。

病棟に着くと、その場に居合わせた看護婦達が出迎えてくれた。

「真紀ちゃん、お帰り。」「真紀ちゃん、よく頑張ったね。」みんなが声をかける。

車椅子の真紀ちゃんはわずかに会釈して、辛そうな顔をしながら、再び下を向いた。

真紀ちゃんが座ってる車椅子を、彼女の係りの看護婦にバトンタッチする。

私はため息をついた。

ナースステーションから廊下に半歩ほど出て、真紀ちゃんの部屋の入り口の方に視線をやる。

そのうち、真紀ちゃんの乗った車椅子が見えて来る。

部屋の前で止まった。

真紀ちゃんは下を向いたまま、声を噛み殺したように泣き出す。

嗚咽が聞こえてくる。

看護婦もその部屋の前で立ち尽くす。

遠くからも彼女の頬が濡れているのが見える。

そのうち、看護婦が真紀ちゃんにひとことふたこと言って彼女の車椅子を押し始め、部屋に入って行った。

この後のことを詳しく記述するのは止めよう。

真紀ちゃんは508号室に入って間もなく、激しい腹痛と息苦しさを訴えた。

彼女の嫌いな点滴をつなぎ、鎮痛剤の投与と酸素マスクを付ける。

出血による貧血も認められたので輸血を続ける。

しかし、しだいに全身状態は不良になり、両親に見守られながら静かに他界した。

私はカルテに書き記す。

[ 本日の真紀ちゃんの死については、受験したことが悪影響を及ぼしたのは、私も認めよう。

文字通り、真紀ちゃんは受験に命をかけることになった。

ただ、真紀ちゃんにとっては、今後に希望を繋ぐ受験であったに違いない。

私達(両親を含めて)は、受験場で真紀ちゃんが急変するかもしれないこと、そして結果的には死期を早めるかもしれないことを覚悟の上で、受験に協力、応援してきた。

受験場で泣きながら痛みに耐え、酸素マスクや鎮痛剤を拒否し、試験問題に取り組んでいったあの真紀ちゃんの姿を見た時、そしてすべての試験が終了して、看護婦のNさんと私に「どうもありがとうございました。」と言ってくれた時、受験させて良かったと思った。

そして、真紀ちゃんが他界した今もまた、その気持ちは変わらない。

2年5ヶ月の間の真紀ちゃんの「どうして治らないんですか。」という言葉が耳をつんざくが、2月23日のあの真紀ちゃんの壮絶な闘いと、時折り見せてくれた笑顔を忘れはしない。

さよなら、真紀ちゃん。

S.63 2.24.4:00AM   ]